不朽の名作「7つの習慣」を読んで

こんにちは。コロナウイルスが猛威を奮い、今や100か国以上で事例があり、全世界感染者は15万人に到達しそうである。ここロンドンでも、かなり緊張感が高まっており、大学も全ての講義や試験がオンラインに切り替わった。また1ヶ月前の日本のような状況になっていて、スーパーではティッシュやサニタイザー以外のも多くの食品や物資が不足している。一時帰国も検討していますが、とりあえずは状況を見ながら判断と言う形である。

 

さて今回の記事では、不朽の名作と言われ全世界で3000万部の売り上げを達成して歴史に残るベストセラー、スティーブン・コービン先生著の「7つの習慣」と言う本の感想を取り上げ、またそれに対する私の意見なども含めて述べていきたい。(これは果たして誰得なのか、、、てんてんてん)

 

概要については調べればでてくるので紹介せずにstraight to the pointでいきたい。また今回こんな偉そうな記事を書いているが、実は本編は読んでいない(笑)某元芸人さんのyoutube動画を参考にさせていただき大方の結論を理解したので、それを元にしたいと思う。英語の原本を2年くらい前に買って読んでいたのだが、お恥ずかしながら長すぎるのと英語ということもあって、読んでいるうちに一体なんの話をしているのか混乱してしまい読み辞めてしまったことがあった(笑)よって今回こうして動画で要点を理解し、大枠を捉えられて非常に良かった。

 

早速、7つの習慣は以下の通りである。

1.主体的であれ

2.終わりを思い描け

3.大切なことを優先しろ

4.Win-win で考えろ

5.とにかく聴いて相手を理解しろ

6.シナジーを作れ

7.刃を磨け

 

これらはモノによっては一見「当たり前やん」と思うものが含まれるが、考えてみれば一見当たり前やんと思えるようなことを語って3000万部売れていると言う事実は驚愕的であり、それにはその洞察の深さと、いわゆる「痛いところついてくる〜」と思わされる内容がある所以である。長いので全体として端的に、私の気になった所だけ少し深掘りしていく形にしたい。(恐らく、1,2,3,5あたり)

 

まず1番目の「主体的であれ」という内容は、言い換えると「全ては自分の責任であるという意識を持つこと」である。例えば誰かに何を言われて傷つくこともあるだろうが、それは極端に言えば「あなたが傷つくことを選んだ」ということだ。これを聞くと、そんなもの感情なのだから仕方ないだろう、と思うかもしれないがこれはあくまで一例である。責任とは、responsibility であり、反応はresponse である。つまり反応と責任は言語的にも近い存在である、ということらしい。

またもう一つの重要な点として「関心と影響のサークル」がある。これは2重の円を想像してもらい、外側に関心、内側に小さい影響の円が存在している状態を示し、これがある種人間の特性を表している、と言う。コヴィー先生の主張は「人間は影響を与えられないのに、関心があるだけの領域に時間を使いすぎている」らしい。つまり余計な他人の心配、テストの結果に不安になること、などは良い例であり、こうしたことに時間を使いすぎるな、というのが彼の主張だ。

往往にして私モアイ個人としては、この主体性をある程度確立できていると思っている。私はこの話を聴いて自分の生活を思い返して見た。その時に、自分のコントロール出来ないことに注意を削がれているという時間はかなり少ないし、「全ては自分の責任である」という意識も持てている。これは大学院にきて、多様性の中で生きる術として必要なものだからではないかと考えている。つまり日本人はhomogeneousで出る杭は打たれると言う言葉があるように比較的同調文化の強い国であるが、海外では、特に大学という国際色豊かな状況ではそれではいけないし、ストレスもたまる。その過程で理不尽なこともあれば、全く理解できないこともある。僕は、それらは全て「自分の期待値と現実の差」でしかないと考えている。本当に全てこれである。人間がネガティブな気持ちになる根本の原因はほぼこれだ。人間関係もそうだが、それ以外でもそうだ。テストの成績でがっかりする、友達と意見が食い違って喧嘩、全ての現象に対して人間は本能的に何らかの期待を抱くので、それによってギャップが生まれネガティブになる。そう考えていた私にとって「全て自分の責任だと思え」と言うのは非常に納得のいく内容であった。あなたも一度見直してみてはいかがだろうか。

そしてこの「全て自分の責任である」と言うスタンスは過度になると、逆にストレスで潰れる可能性もあるのでそこは気をつける必要があるが、私的には非常に楽である。なぜならこう思うことで全てのネガティブな思いが一瞬で解決できるからだ。例えばどんなに嫌なことがあっても「でもこれって、俺がこうやって期待してたからだよな。」と思えば恨みなんて生まれないし、次はどうしようか、と解決策の検討に繋がる思考ができる。チームメンバーといざこざがあった、成績が良くなかった、上司に理不尽な対応をされた、こうした問題について人間は感情的になりやすく、そして感情的に興奮した後には理性的に分析する余力が残っていないことが多く、解決策まで至らない。そしてまた同じことが起きても感情ベースの反応をしてしまいまた解決に至らない。しかし、このファーストフェーズである感情の揺れに対して「俺、私がこう思っていたから、予想していたから起こったのだ」と割り切れれば、それではなぜ自分はそう思っていたのか、という本質的に大切な解決フェーズに思考を持っていくことができる。(1番だけでこんなに書く予定ではなかったが、一人歩きしてしまった笑)

 

2番目は「終わりを思い描け」と言うもので、これは非常に面白い。彼が言うには、「自分の葬式のメッセージで何を読まれたら嬉しいか」が指標である。つまり自分が死ぬ時に、こんな弔辞を読んでもらえたら嬉しい、と言う思える、それがその人の本当の成功だという。我々はこれを最低数ヶ月は練りに練って考える必要あると語っている。これは私は非常に心に刺さったし、なるほどと思えた。いわゆる就活などで「自分のやりたいことがわからないなら、どんな自分になりたいかと考えろ」」と言われることがあるが、それに近いだろう。私は現在これを本気で考えている最中なので、現時点ではまだわからないが、とにかく息子や娘に父が父でよかったと思ってもらいたいし、モアイのおかげで救われたと言ってくれる人が一人でもいれば良いな、と漠然と思っている。みなさんは自身の葬式でどんな弔辞を読んで欲しいだろうか。

 

3番目は「大切なことを優先しろ」である。これはアイゼンハウワーマトリックス?の「重要度と緊急度」4象限で考えろと言うもので、多くの人は「緊急かつ重要である」ことに心を吸い取られそこで溜まったストレルを、たまに「緊急でもないし、重要でもない」ことに手を出し発散するらしい。これは私にも当てはまる気がした。現代人は総じて余裕がなく、いつもあくせくしている人が多いことに加えて、同時にテクノロジーの進化で生活はどんどん便利になり娯楽も増えている現状では、ある意味当たり前かもしれない。しかし大切なのは「緊急ではないが、重要である」のセクションに注力することだとコヴィ先生はのべる。目の前のことだけで手いっぱいになり、たまにだらける、こうした生き方では自己実現には繋がりにくいと言う。確かにこうかくと如何にもロボットのように無言で働き、たまに充電してゆったりしてと言う動きの繰り替えしに見える。おそらく私の解釈では彼は1点集中だけでは危険である、と言うことを言いたいのだろう。つまり勉強であれば勉強を必死に、仕事であれば仕事を必死に、もちろんこうしたことは大切だが、それに必死になるあまり、「緊急ではないが、重要であること」例えば今後の人生について考える時間、過去1年の自分を見直す時間、友人や恋人との関係を考える時間、今の社会や世界について深く分析してみる時間、本を読む時間などを後回しにしているような気がしてならない。確かにこれは世の常であり、これは本質的に人間の本能に基づいていると思う。つまり動物と同じでライオンがくれば逃げるが、そうでなければとりあえずご飯を食べてのんびりするのだ。そして原始人も、食料がなくなれば狩に行き、それ以外は狩の準備をしたり、ゆったり過ごすのだ。それと同じで、仕事に終われ、勉学に終われ、人間は動き出し、ひとまず落ち着くとのんびりしてまた仕事や勉強に終われ始める。しかし我々現代人は動物や原始人と違って未だかつてないほどに変化の早い時代に行きており、生き方も歴史上最も多様化しているのだ。そんな社会において、ライオンから逃げたり、はたまた狩に行ったりするだけでいいのだろうか。変化が絶え間なく起き、いつ社会が変わるかもしれない現代においては狩や天敵から逃げるということに加えて、どう生きていくのかという一歩進んだ思考に踏み切らなければならないだろう。もちろんこれはコヴィー先生の主張を元に全て私個人で考えているものなので全ての人に当てはまるものではない。しかし、今一度我々は日々忙殺される中でもこの「緊急ではないが、重要である」という所に足を踏み入れる時間を作りたいものだ。

 

そして4を飛ばして最後は5番。「とにかく聴いて、相手を理解しろ」である。これは先生自身も非常に難しいとしている部分でもあるがゆえに、かなり達成が難しいところだ。噛み砕くと、「探る、解釈する、評価する、助言する」と断ち切れ、と言うなんともびっくり仰天な主著である。なぜなら、ほとんどの人々はこれら全てをなんらかの形でやってきたことがあるはずだからだ。つまり全人類に対しての忠告になる笑 それを踏まえた上で結論は「共感し、相手の気持ちを全力で理解して、それを言葉で示せ」と言うのが彼の主張である。どういうことか。

前半の4つの禁止事項については例えば親子同士や友人との会話、学生と先生、上司と部下、どの関係でも当てはまるだろう。「最近学校はどうなんだ?」と言う親の探り、「お前の言いたいことって要はこうだろ」と言う勝手な解釈、「あなたの悪い所はここですよ」と言う先生の評価、などなど。もちろんこれらを徹底的に廃城するこは人間社会においてほぼ不可能に近いだろうが、コヴィー先生的にはこれらをするときは慎重になるべきだという。また彼は「人々はおうおうにして解釈や反応が早すぎる」と言う。つまり「最近勉強だるい。」「もう会社辞めたい」と言う一言を聴いて、「なんでだよ勉強楽しいだろう」とか「わかるよ〜仕事俺もつまらんわ、辞めたい、だってさ〜」と言う風にすぐイエスノーを伝えたり、自分の話をしたりする。これはわざとではなく、おそらく多くの人が無意識的にやっていて特に親しい間柄だとお互いのことをわかっていると思って話のテンポがこうして早くなると言う場合もあるかもしれない。しかしそうではなく、「なぜこの人はこう思っているのか。」をまずは考えて、それに見合って共感しながら言語化して返答していくことが重要であるそうだ。「学校がつまんない」と子供が言ったら、「学校に対してネガティブなイメージがあるんだね」と、「仕事がきつい」と友達が言えば、「何か自分の思い通りにいかないことや、理不尽なことがあったようだね」と。しかしこれらはあくまで言い換えでなく、察しも含まれていることから謝って受け取って返答してしまうこともあるらしいが、それはコミュニケーションのなかでよく起こることなので特に不安になる必要はないらしい。

思えば私はこの4つを頻繁に行なっているかも、とゾッとした笑

どうしても自分のなかで、この人のためになんとか役に立ちたい、とか思ってついつい深読みした解釈をしたり、すぐ自分の経験に重ね合わせて語り出したり、ひどいときは同世代のくせに偉そうにアドバイスまであげたりする。もちろん場合によってそれも肯定できるかもしれないが、円滑なコミュニケーションとは「相手が求めているものを与える」と言うのが基本である。アドバイスを求められていないのに、自分の主張一人歩きで最終的に助言をしても、相手の心には響かないだろう。そうした意味で、まずは全力「この人を理解しよう!」と思い共感しながら、コミュニケーションを取っていくことを意識して見たい。

 

とまあ、かなり長くなってしまい、駄文であるが、今回はコヴィー先生の「7つの習慣」を少し紹介させていただき、私なりの意見や解釈(⇦あー!解釈してやがる!)を紹介させて頂いた。ぜひみなさんも一度本書を手にとって自分の価値観や性格に当てはめながら読んでいただければ何か貴重な発見があるのではないかと思う。

 

それでは、また。

 

モアイ

 

コロナウイルスから考える今の世界

随分期間が空いてしまったが、今回はこのブログを書いている(2020年3月現)この瞬間に世界各地で猛威を奮っているコロナウイルスの状況から見る、世界の実態について少し意見を述べてみたい。初めにことわっておくと、これはコロナの収束に向けて何らかの解決策を提示するとかではなく、この現象から見る私の考えを共有だけのブログだ。健康は全ての人類にとって重要な事項であり、こうした疫病の危機に陥った時こそ、騒いで焦るのみではなく、状況を客観視して本当の問題は何かを考えることが、この世界で生きていく上で非常に大切なサバイバルスキルになる。その思いで、モアイ個人の見解をシェアして(誰も見ないだろうが笑)、皆一人一人がそうして考えるようになること、それがこのブログの価値である。

 

コロナウイルスは中国の武漢省にある市場で売られている動物や魚などが発生元として2020年1月にこの3月上旬までにかけて85000人近くの人が感染し、2000人以上の人がすでに命を奪われたエピデミックである。発症元である中国、そして隣国の韓国と日本が最も危険な地帯になっている。(イタリアでも急速に広がっているが。)

 

この状況に置いて、まずは自分や家族や大切な人の安全を守ることは1番大切だが、頭の片隅で何が本当の問題か、課題かを考えたい。こうして世界中で危機が蔓延している時こそ、社会や人類の抱える現状や課題点が鮮明になるはずだ。

コロナウイルスは問題ではなく、現象である。誰かのミスで起こったわけではなく、自然界の連鎖から引き起こされた必然的事実である。そもそもコロナウイルス自体は100年前にその存在は確認されていて、動物など他の生き物の間にははびこっていた。それが何らかの生物学的要因で人間に転移してしまったのだ。この自然界の連鎖によって言わば必然的に起こった事象に対して、ここ2ヶ月の我々の行動はどうだったのか。

 

政府の対応が遅かった。これは私の知る限りでは中国でもそうだし、日本でもそうだろう。こんな事を言っても何も変わらないが、中国政府の対応が相当お粗末だったと感じる。国家首席が公の場で対応の遅さを謝罪する、という事がそもそも危機管理能力の低さを象徴している。しかも、エボラような開発国の政府機能や情報網が発達していない田舎で起きたならまだしも中国は情報網はガンガン走っているし、政府による情報統制と管理は群を抜いている。そんな状況において、疫病の発生に対して対応が遅れた事は痛い傷である。今は政府の対応を批判している暇など誰にも無いが、いずれコロナが収束すればこの政府の対応をぶり返してくる人たちも出てくるかもしれない。

日本についても同様である。横浜のクルーズ船の問題にしても、非常に難しい状況であったのは事実だが、何よりも最優先で対応するべきだったのは間違いない。研究的見解に常に目を光らせていれば、マスクが無くなることもより早期に予期して対応ができたはずだ。野党に至っては、昨年の「桜を見る会」という自民党の疑惑事件をダラダラと指摘し、「コロナウイルスのせいで、この問題を見逃してはいけない」などと言っていた。当然、見逃す事はよく無いが、国民の命と暮らしを守る責任を政治家が、何が起こるかわからない疫病発生そっちのけに与党の疑惑事件の追求を続けようとしている姿勢に1国民として残念だった。

 

しかし最も重要なのは政府の対応以上に、人々の情報収集能力と行動である。これはメディアのせいもあるが、「重要で正しい情報」を得ていない人が多いのが問題だ。3000人が感染し、うち25人が死亡。などという報道を見るとどうしても最初は怖くなる。しかしこうした上部の結果を知っても冷静な判断が出来なくなるだけだ。コロナの死亡率は2%でインフルの2倍しかないし、15年前に起こったSARSは10%もあった。また健康な人の症状は風邪とほぼ変わらない。こうした科学的見解をしっかり頭に入れる事は大切だ。ただ単に感染者数と死亡数を知っていても感情が先走って恐怖におののくだけである。楽観であれ、という事ではなく、informedされている状態が理性的判断のためには必要であるという事だ。

また手洗い、うがいをする。マスクをする。人混みを避ける。こうした事は最初から言われていて多くの人が実践してくれていたと思うが、人間は自分を中心に考える生き物であるため、それに必死になって物事の本質を見失うことがある。マスクを買いだめする人がいるというニュースを見たが、それを買いだめしている人はその典型だ。自分の身を守るために買いだめしたのだろうが、それによって自分の身を守れなくなる人が増えると結局感染の広がる確率は増加して、買いだめした人もより危険に晒されるのだ。自分の身を守る、というのは当然大切だが、周りで起こっている事に注意を向け、感染を止めるにはどうしたらいいのか、ということまで考える必要がある。

そして最近だとトイレットペーパーやティッシュなどがマスクの同じ原材料などでそれも供給不足になるというデマが(サプライチェーンは全く違うので嘘)、流れて多くの人が買い占めに行っているようだ。そもそもこんなデマを流す奴は、自分の言動でどれだけの人を危険に晒すのか、そして社会や経済に大きな歪みをもたらすのか全く考えていない。ひいてはこれに影響されて冷静な判断を出来なくなるというのも、この先進国に生きる21世紀の現代人として、どうなのかと思ってしまう。

 

こうした状況から言えることは、我々人類はこの自然界で生きている以上、何が起こるかわからない世界に住んでおり、またこれだけ繁栄したと思っていても一瞬で多くの人が命を落として世界経済が麻痺するような状況下に常に置かれているという事を認識し直すことが必要であるということだ。誰が悪い、という単純な話ではなく、「なぜこれが起こったのか。本当の問題は何か。自分の今すべきことは何か。」を頭の片隅で考えながら情報に触れ続ける事をやめないようにしていきたい。人類はこれまでの歴史のなかでとてつもない危機に何度も晒されてきた。その中で得た知恵を教訓をいつでも活かせるような準備と体制を整えておく。それは国家レベルでも個人レベルでもだ。きっとこのウイルスを経験した事で、より社会全体としての危機管理は芽生えるだろう。心理レベルで考えれば、感情の波に流される事は人間としてナチュラルだが、世界は発展しつつも一方でより脆弱になっていく側面もあるという事実を認識すれば理性的判断の重要性が増していく事は違いない。

 

最後に、この世界にとって脅威が一刻も早く消えるよう、そして多くの人が命を守り、また安心して暮らせる状態に戻る事を願っておきたい。がんばろう、ワールド。

 

モアイ

 

 

多様性とは何か。

"Diversity and incusion" 就活時代に多くの企業がCSRの一部や、ビジョンとして掲げているを幾度も目にした。ヒト、モノ、カネ、そして情報の動きが地球規模で起こるようになり、生活やビジネスのさまざな側面に置いて「多様性」という状況が、生まれる時代になった。この多様性について、あまり真面目になり過ぎず、思うことを書いてみたい。

 

自分自身に問うてみたいのは

What diversity means to you?

という問いである。

 

これを聞かれると、は?となる人も少なくないかもしれん。自分のいる環境が客観的にみて多様性のある環境であれば、それをある種当たり前だと思い、埋もれる。その環境が多様性に欠けている場合は、むしろ多様性のことなど考え始めない。ということも往々にしてあるだろう。ただモアイは、人間社会に生きている時点で全員多様性の中にいると思っている。個々人全て異なる人間なのだから、インターナショナルである必要はないと思う。

 

僕にとってのダイバーシティとは、なんと言っても巨大なガンダム像である。あれ?これは違うダイバーシティか、失礼しました。

僕にとってのダイバーシティは人との距離感を学び、円滑なコミュニケーションを目指す訓練所である。どういうことか。つまり、異なるバックグラウンドによって形成された考え方や価値観を互いに理解しようと努めながら、相手の求めているものを適切に発信し、そして相手の言う事を素の自分で解釈する。

コミュニケーションとは面白くて、同じことを聞いても、人は違う捉え方をする。幼馴染でずっと一緒に育ってきた友達であっても、違う解釈をする。このコミュニケーションというのは、人間がそれまで見て、聞いて、触れて、経験してきたことなど全てを網羅して情報を仕入れ理解し、また同じ経路を辿って情報を発する。これを気づかないほどの速さで行なっているものだろう。

つまりバックグラウンドが異なり、これらの経験が異なると相手の情報を理解するのが困難になる場合があるし、逆に意外なところで繋がってむしろ異常に理解し合えたりする。これがコミュニケーションの面白いところであり、多様性の中で生きるということはこのコミュニケーションの面白さを知りつつも、それを自然と学び、訓練するような場所だと思っている。

 

例ををあげてみよう。

僕は現在イギリスにいるので、寮にはたくさんの外国人がいる中で日々過ごしているが、その中でもよくギリシャ人やレバノン人など中東、地中海エリアの人間たちと絡むことがよくあるが、彼らの話題切り替えのスピードが半端じゃない。ひどい時には話題が1往復で終わり、次の話題に移る。これは日本人やアジア圏だと少ない出来事だろうし、米国や欧州の人との会話でもあまりないと個人的に感じる。僕からしてみれば、どの話題も薄くなるので、なんだかぎこちないし、もう少し深く話そうぜ、と思う。しかし彼らにとってはそのテンポの良さこそがコミュニケーションの柱であって、自然と行なっているのである。ここでどちらかが良い、とかいう話では全く無く、この違いを互いに理解し合い、尊重し合い、コミュニケーションを取ることが大切である。むしろこっちが会話のテンポを早めてみたりすると、余計に相手は嬉しそうに話す。当然こちらが真剣に話すと、向こうも1つの話題に付いてきて、深まることもある。

 

冒頭にも書いたが、これは何も外国人との会話だけではないだろう。日本人同士でコミュニケーションを取っていても、自分とこいつ、全然思考の方法が違うな、意見合わないなと思うことも多々あると思う。そう感じているのは多様性があるからだ。肌の色が違うとか、違う言語を話すとか、LGBTだとか、そういったものが多様性の代名詞のようになっている昨今だが、僕は全ての人間は多様性の中で生きていると思うので、多様性そのもの自体に大きな凄みはないと考えている。凄みが出るのは、人それぞれが所属するコミュニティにおいて、相手との距離を見極め、適切にコミュニケーションを取ることが半ば意識的に出来ている時だと思う。無理をする必要はない、僕も親友と話している時に、多様性なんぞ考えずに、ゲラゲラ笑っているだけだ。しかし、これだけ自由に活動できる社会に生きる我々はいつ何時でも新しい環境に飛び込む事ができる。学生で言えばバイトがその典型だろう。ぜひ、くそ真面目な街道を歩んできた人生ならば、一度わいわいハッピなー居酒屋で働いてみてはどうだろう。チャラけた道を歩んできたならば、本屋のアルバイトをしてみたらどうだろう。居酒屋で働く中で、彼らの陽気さや明るさ、ノリの良さに気づくだろう。本屋で働く中で、どういった人がどういった本を求めて来ているのか、そして現代社会において著名な作家やインフルエンサーたちはどういった本を出しているのか、勉強になるだろう。これらもある種のダイバーシティを感じる瞬間だと思っている。どんな本が出ているかなんて、コミュニケーションじゃないではないか、と思った方もいるかもしれないが、本を並べている時にプロローグを少し読んでみる、そしてそれに付いて自分の意見をパッと一文でまとめてみる、これだけでその筆者との簡単なコミュニケーションを取れていると僕は考える。

 

とまあ、こんなところである。ぜひ多様性という言葉が頻繁に使われるようになった世の中だからこそ、自分にとっての多様性とは何だろうと一度考えてみると、面白い発見があるかもしれない。それではみなさん、良い多様性ライフを。

 

 

モアイ

日本の教育制度について思うこと

今回は社会課題と言うと少しお固いかもしれないが、イースター島出身のモアイが思う現代日本の教育制度にういて感じることをつらつらと書いてみたい。特に教育に興味があるわけではないが、これまで真っ当な教育を受けさせて頂いた身として、感じることはいくらかあるし、世界の国々を見ていてもやはり教育が社会や人々にもたらす影響というのに並大抵ではないと思っているので自分なりの主張を展開してみたい笑

 

教育制度というとかなり広義だと思うが、フレームで特定はせず、教育制度の要所

要所について思うことを書いてみたい。

ポイントとしては以下。

1. 全員に同じことをやらせる傾向がある。

2. 数を増やして質を下げている。

 

1つ目については英語教育とプログラミング教育が最近話題であり、もっとも良い例だろう。英語教育だと大学入試に民間試験の導入が叫ばれ、色々と課題点が見つかったので延期になったりを繰り返しているが無駄な時間だなと感じてしまう。この導入についての事細かに詳細な情報を仕入れている訳ではないので、あくまで僕の知っている範囲内で言う。民間試験の導入について課題となったのが格差である。地理的格差と、経済的格差のようだ。試験を行う会場が地方にはない為、都市圏に住む学生が有利になるのではないか、また経済的に恵まれない家庭に住んでいる学生たちにとって受験料が障壁になるのではないか、と言った議論だ。事実としてはあるが、そんなに難しい問題なのか。そもそも会場が少ない、と言う議論はテストが会場で行われなれければいけないと言う前提認識があるから起こっているのであって、英検はオンラインで受験ができるし、他にもオンラインで受験できる試験はたくさん存在する。それらを軸にして仕組みを作ればいいのではないか。そもそも「受験の選択肢が狭まる」と言うが、英検、GTEC、TOEICなどを高校生が受けて、試験の種類によってそんなに得点が変わるのか疑問だ。英語の試験を受けていることに変わりはないのだし、しっかり勉強していればどれを受けても良い点は取れる。ならば「選択肢を増やして公平にするべきだ」なんて的外れな議論をしてないてどうすれば「英語教育の質そのもの」を向上できるのかを今すぐ議論して、制度を作るべきだと思う。

経済格差に関しては、所得に応じて補助金制度を作るのなんてそう難しいことではないと思うし、英語を本気で学びたい学生にはそれなりの援助をするべきだ。財源がないなどと言っているが、日曜にやっている衆議院委員会など、とてつもない金額で開催しているのにしょうもない議論ばかりしていると思う。金の使い方をそもそも見直した方が良い。

ただ僕独自の意見としては、民間試験導入を政府主導で行なっていること自体少し理解が出来ないし反対である。1つ目の主張である全員に同じことをやらせようとするのが、日本の教育の悪しき習慣だと思う。プログラミングにしてもそうだ。英語やプログラミングなんてやりたくない学生も多くいるだろう。クリエイティブな職について絵を描きたいと思って熱心に絵を書いている学生に、プログラミングや英語教育を押し付けてどうする。本人がやりたくないのやらせても伸びる訳ない。莫大な金を投じて制度だけ作っても効果は小さい。学びたい人が学べる環境を作る、のが教育の本当の目的だと思うが、時代はグローバルだから、ITスキルがないと、と言ったトレンドに乗っかってやりやすい制度を作って、教育の本質を見落としている気がする。例えば大学時代に、ある教授が「今後は小学校でプログラミング教育が実施される。君たちの下の世代はみんなプログラミングが出来るように育つんですよ。君らも負けてられませんね。」みたいなことを言っていたが、意味がわからない。じゃあ、僕らより上の世代の彼らは中学高校で英語をみっちり学ぶ僕たちをみて、「やばい、みんな英語話せるようになって育つ」と思っていただろうか。と言うか、僕ら6年間英語学んで話せるようになったのか。ほとんどの人はなっていないだろう。それは英語教育の質にも問題あるが、それ以上に本人たちが「やりたくない」を思ってやっていて、かつ大学に入れば学びを終えてもいいからだ。言語なんて使わなければ忘れるのだ。僕は英語が好きで、大学に入ってからも単語帳がボロボロになるまで学んでいたが、友達では「やっと英語から解放された」なんて言っている人もいた。ここが教育の問題である。時間を金を無駄にして学生たちのやりたくないことをやらせるのだ。誰が得をしているのか。プログラミングだってそうだ、小学校で学んでもその後学び続けて実践で使わなければ、真のIT人材として活躍することは出来ないだろう。同じ結果になることが目に見える。期間と分量を調整したお試し期間を設けて、プログラミングにハマった学生には授業を続ければいいし、「ヤダヤダ」言っている学生に教える必要はない。

僕だってプログラミングの必要性を感じていくつかの言語に手を出したが、これがとてつもなくつまらない。なのでやめた。意志が弱い、とか批判されるかもしれないが3日とかでやめた訳ではなく、オンラインで有料プログラムを数ヶ月やった末の決断だ。つまらないことで、学びの効率は下がる。だったら楽しんで学べる人たちに学ばせた方がいいし、将来プログラミング力が必要になったら出来る人材を連れてくればいい。なので、小学校のプログラミング必修化なんて金を時間を無駄にして、小学生たちの若い活力を削いでしまうものになるのでは、と個人的には懸念している。

言いたいことが多すぎてあっちこっちに議論が飛び、申し訳ありません。

1つ目の結論としては「学びたい学生に学ばせろ」と言うことだ。みんなが出来たらより良いじゃないか、と言う人もいるかも知れんが、みんなが出来る必要がそもそもあるのか?みんなが出来たら彼らの価値はどこになるのか。もちろんこれを言って、具体的にどうすればいいのか、それは僕は教育の専門家ではないのでわからない。しかし1国民から見ていて、現在行われているこれらの改革には大きな疑問を抱いてしまう。日本の教育制度がより柔軟なものになり、真の意味でグローバル化に対応した国になれることを願いたい。

 

2つ目の点として、数を増やして質を下げている点だ。良い例だと大学や学部の作りすぎだろう。Fらん大学とか本当に必要なのか。冷静に考えてみたい。大学や学部を新しく作るなんでとんでもなく費用がかかるのに、費用対効果としてそこを出た学生たちは成長し、自分たちの目標に向かって羽ばたいているのだろうか。僕も正直大学時代はちゃらんぽらんに過ごしていた。もちろんそれは大学が悪いのではなくて僕の意識が低かっただけだが、そうした学生は少なからずいるはずだ。Fらん大学に限ったことではないが日本の大学は本当に質が低い。これはマレーシア留学時代に感じだことだ。大学2年生のころにマレーシアの大学に留学した時に現地の学生の勉強ぶりや、課題の多さに驚きかなり勉強した。この時にどれだけ自分がそれまで勉強していなかったか気づいたし、それ以上にこうして外の世界をみるチャンスがないと、多くの学生は自分の大学で「学んでいる気になって」終わってしまっているのではないかと思った。そう考えると、社会に出る前の「溜まり場」となっている可能性がある。にも関わらずその質の向上以前に、教育のチャンスを全員にと言って質の低い大学を作り、トレンドに合わせて学部をぼかぼか作り、適当に先生を引っ張ってきて、ランダムに教える。これもまた中途半端な人材を増やしているだけな気がする。課題解決の手段が間違っている。これもまた日本が「大学に行くのは当然だ。」なんて風潮があるから、学生は「大学に入ることを目的」にして結局競争で負けて志望度の低い大学に行って遊び散らかす人もいるだろう。大学に行かなくてもやりたいことで進めば良いのに、高校は合格実績をきにするのでとりあえす受験させて合格数を集めたい。ここら辺の認識を変えることが重要ではないかと思う。

 

疲れたのでもうやめる。笑 

まだ言いたいことはたくさんあるし、下書きとか作らず1発で書いているので、論理的になっていない部分も多いと思うが、ひとまずこれらの2つが日本の教育制度について(課題点として)ざっくり僕の感じていることだ。この教育制度を変えようと活動している人達を本気で応援したいし、僕は英語という武器があるから、少しでも英語を学びたいと思っている学生たちのためにユーチューブという無料のプラットフォームを使って英語の勉強法やレッスンを発信していきたいと思っている。日本の若者がより活躍できるようになるために、僕が出来ることはやっていきたい。頑張ろう、ニッポン。

 

みんな学生時代の一番の思い出って何かな?

 

 

 

モアイ

海外大学院での生活 勉強編【留学・大学院・イギリス】

ブログを始めてからまだ間もないうちはとにかく量が大事だと思っているので、頑張って頻繁に書く努力をしている。笑

これを書いているときは金曜の夕方なのだが、もう1週間の疲れが溜まり、糖質も切れ、頭が回らなくなったのでブログでも書くかといったノリだ。何にそんなに疲れているのか、当然の事ながら勉強であり今回の記事では「海外大学院での生活 勉強編」として記していきたい。

これまでの語り?とは少し違ってごく普通に勉強面においてどういったスケジュールで、どういったタスクをこなしているのかを紹介していきたい。留学や大学院進学を検討している人にとっては、イメージを湧かせるきっかけになるだろうし、そうでなくとも海外大生の生活って少し気になりません?(笑)

 

僕は2019年の8月からイギリス、ロンドンにあるImperial College Londonのビジネススクール修士課程として在籍している。大学の詳細は調べれば出てくるので端折るが、多角的に見てまあそこそこ良い大学である(笑)その中の専攻は簡単に言うと「ビジネス&ヘルスケア」といった感じだ(雑)

 

これはみなさん周知の事実だと思うが、大学院となるとそれまでの学士とは異なり、研究が増えたり、特定の教授の元で学ぶ機会が増えたり、様々な学習形態をとる。ただ僕の場合はresearchではなくtaught program というインプットにも非常に力を置いたコースなので(ビジネススクールMBA除けばこれが主流だと思われる)、所謂研究もなければ修士論文も無い。大学の卒業論文でも苦労したので英語で修論なんて言われたら、イースター島帰ります。

大枠としては3学期制で、最初の2学期は期末試験があるが最終学期はグループプロジェクトのみとなる。毎学期に5個のモジュールがある。

ここからは具体的に海外大学院の良い点や嬉しい点について記していきたい。なお国や大学、コースによって異なるので一概には言えないがイメージングの参考までに。

 

1. グループワーク豊富

これは特にビジネススクールに特有の要素かもしれないが、僕のコースでは全てのモジュールでグループワークが必ずある。1学期には財務諸表とかを習う会計の授業ですらグループワークあった。意味わからん。ワークの形としては、実在する企業を選んで、その会社の新市場開拓のための経営戦略をまとめてレポートにしたり、医療制度に関する政策提言をプレゼンしたり様々である。ビジネスとはインプットだけでは当然学べない、経験がものを言うので、まあチームで活動する中で起こるコンフリクトや不調和をマネジメントしながら計画を立てて物事を進めていくチームワーク養成という動機でこうしたプログラム構成になっているのだろう。

2. 多様性

これは院に限ったことではないかもしれないが、クラスは本当に多様でこれは出身国のみでなく彼らのバックグラウンドもそうだ。例えば経済学部に所属していて、海外大学のschool of economicsコースに交換留学しても皆同じ経済学を学んでいる人たちだろうが、大学院になるとこれが本当に多様である。生物学、薬学、エンジニアリング、ファイナンス、国際関係など、様々な学士のバックグラウンドを持っている。それに加え、院には職務経験を持つ人たちもいる。僕のコースで言えば60人中25人くらいは社会経験がある方々で、そうした人達を身近に接して仕事の話を聞けるのは非常に貴重である。

3. 授業のレコーディング

これは僕の大学特有かもしれないが、全ての講義は自動でレコーディングされていて、終わった後に学生ポータルで映像と共に見ることができる。授業で使用されたスライドどころか、教授の話す内容まで見直せるので、もはや授業行かなくていい。笑 僕は話すのが遅い先生の授業は、このレコーディングで1.25倍速にして時短で聞いている笑

4. フォローアップ

院は高い学費を払っていることだけあり、授業のフォローアップも非常に手厚い。チュートリアルというレビュークラスが設けられている講義もあれば、教授のオフィスアワーが示されていて個人的にウェルカムされている。

5. 就活サポート

特にビジネススクールに多いと思うが、名門大学とだけあってキャリアのサポートもしっかりしている。最初の1ヶ月は毎日のようにキャリアのワークショップがあり、それ以外にもネットワーキングといって卒業生の方々と交流してお話をする機会もたくさん用意されている。

 

と、まあざっくり僕の感じるいい点はこの辺りだが、大学によって異なる面も多くあるので参考程度にして頂けたらありがたい。

ここから少し個人的に僕がどういった勉強の日々を過ごしているのか、記していきたい。

現在は授業が火曜、水曜、金曜にそれぞれ2時間のものが2つずつ、それに加えてチュートリアルが1つある。現在は3つのモジュールを受けていて、タームの後半から2つ増えることになっている。

3つのコースプロジェクト

2つの個人ワーク

を主に同時進行で行なっている状態で、これがまただいぶきつい。笑 月曜と金曜はオフなのだがもちろん大学に来て1日勉強、週末という概念もほぼ無く、進捗が悪ければ週末もひたすら勉強している。まあ良い大学にくれば当たり前に皆んなやっているが。詳しい1日のスケジュールなどは端折るが、大体毎日10時間弱くらい勉強している。腰が痛いーーーーーーー

その中でも特に大変なものを言えば、リサーチである。例えばイギリス政府の医療部門に政策提案をするという形でレポートを書くとなると、イギリス政府の文書にアクセスして現在の制度について網羅し、そこから文献を読み漁り、その論文の文献をまたさらに読み漁り、といった形で深掘りしていき前提知識を集め、そこからアイデアをひねり出す。これが本当に骨が折れる。大学時代、いかに楽してレポートを書いていたかを誰よりも実感している笑

しかしこうしたrigorousな学び方を通して、考える力、伝える力をいうのは非常に身につく。要はこここそが大学院で学ぶことの本質であり、成長の余地があるところなのだ。お父さん、お母さん、ありがとう。

 

イギリス酒税高いよー酒が高いよー、トリキ行きたい。カンパイ。

 

モアイ

 

 

日本人であることはチャンス【海外・留学・無茶】

今回の記事では海外留学に主に焦点を当てて、日本人であることがチャンスであるということについて書きたい。

最初に断っておくと、ここで述べることは完全にモアイ個人の経験をベースにした主観的意見であり、正解でもないし、諭しているわけでもない。ましてや「全員留学しろ」などど1ミリも思っていない。それを前提に読んで頂けだけたら嬉しい。

 

今回のブログで伝えたいことは1つ。

 

「日本人であることを活かしていこう。」

 

といことだ。

 

僕は東京生まれ東京育ちで家族や親戚も全員日本人、小中高も普通に純なところに通っていた。大学に入ってからも外国人がそこまで多いかと言われると、そもそも交換留学で来ている学生が10〜20ほどだったので、そうでもない。なので、日本人に囲まれて日本で育った The 日本人である。

このタイトルで付けたように、日本人であることはチャンスだと感じたのは現在のイギリスに留学し始めてからなので最近だ。(笑)僕の通っている大学では、日本人が全体としても20人もいないし、ビジネススクールには1000人中3人、所属するコースには70人中1人だけだ。もちろんロンドンの他大学になれば人数の増減はする。しかし、全体としては少ない。また世界規模で見ても色々なデータからわかるように日本人の留学生というのは他のアジア諸国に比べても以前少ないようだ。(北アメリカ西海岸にはウジャウジャいるが。)希少価値というものは大きい。もちろん留学して海外に身を置いて、自分しか日本人がいない、という状況だけに希少価値を置いてるようでは勿体無いと思うが、少なくともそうした状況は自然と恩恵を与えてくれる。

例えば、クラスのディスカッションになった時、日本の話になると僕しか話す人がいないので、自然と話す量も増えるし、外国人たちの注目も集まる。だからこそ日本という国についてより勉強しなければいけないと思う。オフの場面でも日本という国について語れる人が少数なので多くの人が自分に集まって、文化について社会について色々と話す。そうした会話のなかで質問されて、受け答えて、その過程で今まで気づかなかったことに気づく事もあるし、疑問に思う事も多々ある。このように考える機会であったり、日本人である自覚を”自然と”持てることは特権であると日々感じる。(僕は「俺が日本代表だ」とか思いながら偉そうにしている笑)

 

これを読んでいるみなさんの中にも、海外にいる時にふと「日本でなんか狭い国だな」と思った経験がある人もいるのではないだろうか。物理的にとかいう話ではない。そう、日本という国は1800年代中期まで鎖国をしていたし、最果ての東洋国家、島国としての歴史を持っているので、言語的にも民族的にも孤立しているというか特別な存在である。日本はそうした歴史背景を持っていることに加え、教育体制とかもみんなに同じ事をやらせようとするので同じように育ち日本しか知らないように育つ。しかしだからこそ、この固有性を活かすべきだと思っている。日本という島国で育ち、慣習的な教育制度の元に育ち、平凡でいたからこそ”味”があるのだと思う。

先日、ロンドン市内の他大学に通う年上の日本人の方と会食をした時に「日本は独自の固有な文化があるからこそ、その美を持つことは大切だし、グローバル化の波に乗ってアイデンティティを失うのはよくない」と言ったお話しをされていて、なるほど確かにと思ったし、上記の話もその方の引用も混じっているかもしれない。レファレンスしっかり載せます。(盗作、ダメ絶対。)

何が言いたいかというと、日本というある意味閉鎖的な環境で育ったからこそ個々人の性格も含めて強い独自性を持っているし、だからこそそれを一種覆されるような経験をできるのが留学を含めた海外経験なのだ。海外留学についてのニュースや調査を見ていると、留学に行かない理由に上位に「言語面が不安」「ホームシックが不安」「健康が不安」などが含まれているようだが、こうした不安を持ったままでいい、それで文化の壁に衝突して体調を崩したり、コミュニケーションで苦労したり、そうした中で本当に得るものがある、と僕は思う。実際僕もこれ全部経験してそれが自分を形成したし、なんか色々強くなった笑 この素晴らしい日本という国で培われた経験や価値を、海外留学でぶち壊す。そこから新たな意識や考え、発想が生まれる。

 

これらは留学に限った事ではない、別にボランティアでもインターンでも、バックパックでも何でもいい。海外に出ることで、挑戦することで、壁にぶつかり、そこから自分の物語が始まる。

ただ海外にでなければいけないのか、というと全くそういうわけでもない。これはお金の話にも通じる。こういうことを書くと「金銭的に負担があって、留学したくても出来ない人もいるんだ。」という意見が必ず出てくるが、その場合は留学しなくてもこの情報社会に生きていればスマホ1つで海外に触れることがいくらでも出来る。そうではなくて留学がしたい、というなら自分の力で努力して金を稼ぐしかない。必死に勉強して奨学金を取るしかない。これを深掘りすると議論がズレまくるのでほどほどににするが、人生は平等ではない、という事実は認識するのが必要がある。僕も昔から言語的な障壁があって、小学校時代は吃りが激しく、そのせいで何度もいじめられた。死ぬほどムカついたし、何で俺だけこんな話すのが下手なんだと感じ、親を憎みそうになる時さえあった。でも人と話すのは好きだったし、一人で話しの練習を積み、ほとんど克服できた。皆人それぞれ、抱えるものがある。向き合って生き、努力するしかない。

話しを戻すと、物理的に海外に行くことで体験出来るもの、学ぶ事も多くある一方で現代においては腐るほど情報が溢れている。それを自分に関係ないと思って触れない人がどうも多いような気がするので勿体無い。

 

日本人というステータスを活かすも殺すも、本人次第。それは留学に限った事ではないが、モアイ的な視点でいうと海外に行けるチャンスがあるならぜひ挑戦してほしい。

日本人が海外に行くべき理由がもう1つある。それは他の日本人との質の高い関わりを獲得出来るという事だ。上記で紹介した日本人の先輩もその一人だが、海外に出てきている日本人の方々というのは非常にアンビシャスで、自分のやりたいことに情熱を持って、夢中になって邁進している人が多いと思う。こうした人々との関わりをもち、貴重な人脈を広げることが出来るもの大きな利点である。人脈なんぞ、ネットの世界ならいくらでも出来るというのは事実だし、これも大いに活用すべきだが、言いたいのは海外留学という同じステータスを持つことで共通事項が生まれ、貴重な出会いを楽しめるということだ。

 

と、ここまで様々な側面で日本人であることのチャンスをモアイなりに示したが、これらは結局本人の意識と行動次第でいくらでも変わり得るので、積極的に、主体的に、触れて、行動することが一番大切である。その先に本当の海外生活、留学生活があると僕は思っている。

とはいえ、こんな事を言っても大学2年生で交換留学をする場合、勉強に精一杯でそんな余裕もないし、そもそもこんな意識も生まれない、という場合もあるかもしれない。ただ何歳であれ、場所がどこであれ、期間がどうであれ、自然と感じるものがあると思うし、そこで行動したいと思ったらすればいいと思う。

 

かなり主観的に語ってきたが、というか僕の記事なので全て主観でしか書けないのだが、日本人である事に誇りを持って多くのものに手を出しながら、その中で海外に行くことがあれば、これらのことを思いながらジャンジャン動いていっていくとさらに見えてくるものがあるはずだ。

 

余談

海外にいると日本の良さが改めてわかるというが、この感覚は海外に行けば行くほど余計に強く覚える。温泉とかなんぞ?最高すぎん?お風呂の王様とか作った人、一生尊敬する。ありがとうございます。みんな、出来ればお風呂は浸かろうね。体内温度と皮膚温度を同じにすると睡眠の質上がるらしい。僕はそれ出来ないから、寝る前にお湯飲んで寝てるよ。なんか寂しいよ。今んとこ効果実感できてないよ。チアーズ!

 

 

モアイ

 

 

人生とは何か

初めてブログを書くというのに、この重いタイトル。特別な理由はなく、気づいたらこのタイトルを打っていた。

記念すべき、初のこのブログで伝えたいことはただ1つ。

 

「人生って思った以上にシンプルだ」

 

ということ。

この瞬間に同意出来た皆様はこの先読まなくてもいいかもしれない。早速自分のやるべき事に戻って頂いて構わない。

 

言葉の解説に入る前に、自己紹介をしなければ笑(興味ない人は飛ばして頂いて)

僕は東京生まれ東京育ちの色黒男で、人生最初の15年間は親にも神様にも謝らないといけないような日々を送り、平凡な人間だった。時は過ぎ、現在はイギリスの大学院(一応世界ランク8位)でビジネスを学んでいる。大学時代とは比にならないくらいの勉強を日々しているが、刺激的な日々を過ごせている事にとても感謝している。多様性に富んだこの海外大学院という環境に身を置くなかで、得るもの知るもの気づくことが予想以上に多いので、せっかくなのでブログという形でシェア出来たら良いなと思いここに至る。昔のあだ名がモアイだったので(理由はいずれ)、モアイと自分で呼ぶ事もあるかもしれない。

 

最初のテーマが人生って、、と思われたかもしれないが、別に病んでもいないし、こういう事を語るのがもともと好きな訳でもない笑 普段は筋トレしまくって、たまに千鳥の相席食堂とか見て爆笑している、割といまだに平凡。

 

大学院に来ていると言ったが、実はもう1学期目が終わり4ヶ月くらい経っている。そんな中最近、人生について考える時間が増えてきた。(増えすぎると多分よくない)

人生と聞くと、何か哲学的で答えもないしよくわからん、と思う人が大半だろう。しかしそれでいい、哲学的だし答えもない。だから冒頭に言ったのだ、思った以上にシンプルだと。じゃあ、モアイはなぜシンプルな事をそんなに考えているのだ、そんな指摘を受けるかもしれない。ただシンプル=考えなくていい、というわけではない。必要以上に複雑に考えている人が多いような気がするという事だ。

自分の人生、何をしたいのかわからない

僕は何のために生きているのかな

幸せって何だろう

なんてこと1度は考えたことがあるだろう。実際僕はイギリスに来た当初、1ヶ月くらい大学の芝生に寝っ転がりこんな事を思っていた笑

答えが出たわけじゃないし、答えもない。ただ1つ感じることは「俺、私の人生やん。」って日々思って生きるといいかもしれんということ。それを決断の時の軸にしてもいい。こう言うと当たり前に聞こえるが、過去を振り返ると意外と無意識に、他人のこと気にしたり、利害関係考え過ぎたり、していたのではないか。それが悪いわけじゃないし、僕もそういうに生きていたし、今でも時々そういう風に生きているかもしれない。でも「俺、私の人生やん。」って思いながら生きるととてもシンプルで何だか生きていて気持ちよくなる。他人の目を気にするな、とか、やりたい事やれよ、とよく言われるし言っている人も多い世の中だが、まさにそう。僕は大学を卒業し、院というモラトリアムの世界を突き進み、しかも海外にきて治外法権を行使して割と好きなように生きているので、大学時代の同期とたまに話すと、「仕事が辛いんよ」「上司が怠い」「思っていたのと違う」なんて言葉をよく聞く。前提として学生から社会人という社会的タイトルも責任の大きさも異なる状態になったので、こうした感情が芽生えるのは当たり前と言えば当たり前だと思う。あとは個々人の差。その次に、その状況を変える努力をしているのかが気になる。意味付けをして、捉え方で物事は変わるはずだ。毎日エクセルばっかいじっていてつまらん、怠い。と思って仕事している人と、これクオリティキープしながらスピード上げていけば、エクセルの神になれるやん。と思って時間測ってやってる人とじゃ、何かが違うと思う。その努力をした上で本当に嫌ならやめればいい。自分の人生、まじで嫌なことに時間割いている暇ない。と、こんな事を言うと社会経験もないくせに、と思われるかもしれんが、それは事実なのでそう思ってくれて構わない。海外でのほほんと過ごす22歳の戯言である。

とはいえ、人生とは何か、なんで壮大なテーマだと思うし個々人の考え方と経験に大きく寄るので「ハーン」くらいに思ってくれたら嬉しい。先日内定先の大手外資コンサルで20年近く働いた頭キレッキレの執行役員のかたに「人は何のために生きると思いますか」と聞いたら、少し間を空けて「死ぬときに、人生よかった、と思えるために生きるんじゃないかな」というわりと平凡な答えが返ってきて少し拍子抜けしたが、コンサルといういわば(色んな意味で)厳しい業界で長年働いてきたロジカルおじさんでも、そんな風に考えているのだと、しみじみ。僕が変な期待を持っていただけかもしれないが笑

自分の人生なのに、何だか他人に依存したり、知らず識らず他人のために生きたりしている時間は勿体無い。シンプルに「俺、私の人生やん」って思ってやりたいことやって、失敗したら次行こう。

 

少し長くなってしまったし、これ言語化してみると自分で何書いてるのかよくわからなくなってくることに気づいたので、意味不明なことになる前に終わりにする。そしてみなさんお気づきだと思うが、僕の日本語は何ともはがゆいくらい稚拙である。何を隠そう、高校時代に英語の勉強ばかりしすぎて高校3年次10月の河合模試は国語の偏差値37である。自慢できることがじゃないが、今後のブログでもたまに日本語間違っていたり、変なニュアンスのものもあるかもしれないが、generousな皆さんの心でスルーしていただきたい。ついに英語が出てきたのでもうやめる。力の限り、頑張ります。

 

今回のような深い?話しは今後あまりすることはないと思う。基本的には留学生活(大学時代もマレーシアに交換留学していた)のことであったり大学院進学について、また英語の勉強法、旅についてなど分野問わず色々面白いコンテンツを書いていこうと思う。

最後まで読んでくれてありがとう。シンプルに生きていこう。

 

はー、ラーメン食べたい。

 

モアイ